みなさんはじめまして。風浦です。ジャズとハウスが好きな一介の音楽リスナーです。 苦手なアルバムの苦手な部分についてSNSで個人的に書いていたら、編集長のEPOCALCさんから執筆のお誘いを頂き、この度Water Walkに短期連載として寄稿させて頂くことになりました。
はじめに
音楽、映像、美術などあらゆる創作物は作るのに多大なる集中力と労力を要するため、全てのクリエイターの創作行為というもの自体は称賛されるべきである。それ故に何も作らないであれこれ言う人間や、中途半端に制作して完成させてこなかった人間より素晴らしい。これは大前提として私も持ち合わせている。
しかし一方で、中には評価がカルト化し、悪評価はすべて黙殺されている作品も少なくない。熱狂的なファンやクリエイターに攻撃され、詰め寄られても真っ向から悪評を言える人間は余りいない。それでも悪い評価をつける場合は私怨でも目的意識であっても、何かしらの事情があるか、よっぽどの信念があってのことである。
つまり、個人レベルでの言論統制は可能である。自分の好きなものや自意識が毀損したことに傷ついているだけなのに、自らの感情の流れに無自覚で、他人を諸悪の根源にしている人物やファンダムはそこまで珍しくないが、評論が機能しないコンテンツは存在そのものがプロパガンダ性を孕んでいるということになり、この民主主義の世の中としては最悪である。
今回は個人的に「ネガティブな発言をすることが難しい」と感じた苦手なアルバムの苦手なところの誠実な言語化を試みてみようと思う。本記事はすべて私の感想に基づいており、今回レビュー執筆したアーティストに対する個人的感情や関わりは一切ないことをまず前置きしておく。
私が感じた素直な考えを言語化することは言論の自由に基づいており、何の問題もない。個人攻撃が起こることも織り込み済みだが、それもまた「実際に個人レベルでの検閲官がいる」という検証の証明となるであろう。
それでは、話していこう。
音楽の心臓は声であり魂でないのか
───菊地成孔/新音楽制作工房「未来のコドモたちの食べ物」
コラボレーションや融合は不思議な代物である。混ざりあうことで進化する場合もあれば、互いを殺しあうこともある。本作は私の中で完全に後者であった。
形態の発表経緯と内容的に「第4期 SPANK HAPPY」とも位置づけられるこのアルバムについて話すにはまずSPANK HAPPYというアーティストについてザックリ説明しなくてはならない。
SPANK HAPPYは菊地成孔を中心とするユニット。1992年に活動をスタートし、ハラミドリをボーカルに据えた当初はバンドサウンドで活動していた。
しかし、2001年~2004年の「第二期」と呼ばれる時期から雰囲気をガラリと変え、岩澤瞳をボーカルに迎え菊地成孔とのデュオスタイルで活動することとなった。その不健康そうで退廃的な世界観は一部のリスナーにカルト的人気を得たが、岩澤の引退とともにSPANK HAPPYは世の中から姿を消すこととなった。
しかし、2018年に小田朋美を迎え、またしてもデュオ形式で再始動する。今度はもっと健康的に大人の魅力を打ち出したユニット「FINAL SPANK HAPPY」を「第三期」、または「最終スパンクハッピー」と呼ぶ。こちらもすぐに活動の更新がなくなった。全てに共通するのが、同じ名前を持ちながら時期により経路が全く異なることだ。共通するメンバーである菊地の興味関心やムードを色濃く反映し、どれも異なるジャンルで楽曲を制作、発表している。
そんな動いては停滞を繰り返していたSPANK HAPPYだが、2024年に動きがあった。プレミア化していた2期SPANK HAPPYの音源の権利問題が解決し、サブスク配信ができることになったのだ。2期SPANK HAPPYに深く影響を受けたと語るアーバンギャルド松永天馬とアイドル・電影と少年CQのプロデューサー長田左右吉の説得により、このサブスク配信を記念した多数のイベントが執り行われることとなり、その一環として6月14日のライブ「SPANK HAPPY retrospective」に合わせ、2期スパンクハッピーの未来形最終形態として「コドモ・スパンクハッピー」という新しい形が発表された。
これは2人のキッズダンサーの踊りに合わせてAIボーカルを使ってリエディットしたSPANK HAPPYの楽曲を披露するというスタイルであり、「ステージに居る本人がその場で歌わない」という意味では、2期SPANK HAPPYやドミニク・ツァイ、縣亜希、野宮真貴などを迎え2006年10月までに続いた「マネキン」としての口パクボーカル演出を形的にオマージュしたことになる。2024年頃の菊地氏はAI活用に執心しており、2024年4月10日にリリースされた2期SPANK HAPPYの幻のデモ音源「ethic」でもジャケットにAI画像がそのまま使用されている。
今回言及する「未来のコドモたちの食べ物」は、コドモ・スパンクハッピーのステージで披露されたスタイルの楽曲群を収めたアルバムである。2025年6月21日にドロップされた配信限定リリースの本作では、ジャケットにイラストレーター・可愛芭恋の手でポップに描かれたコドモ・スパンクハッピーのメンバー2人(ねね as 岩澤瞳 / りり as 菊地成孔)の姿がでかでかとあしらわれている。宣伝の告知ではタイトルの後に「スパンクハッピー・セルフリメイク」と書かれており、2024年6月14日に披露されたコドモ・スパンクハッピーのことを示唆しているのは火を見るより明らかである。
このアルバムで一貫しているコンセプトは「SPANK HAPPYの楽曲たちを菊地や岩澤の声を学習させたAIボーカルを用いてリエディットする」であり、1曲目「CLONE」24曲目「フランス語のスパンクハッピーのテーマ」以外は全て過去のSPANK HAPPY楽曲のリアレンジカバーである。楽曲の制作は菊地成孔の他に、彼自身が率いる音楽制作チーム「新音楽制作工房」のメンバーが手掛けている。
ポストSunoサウンドのもたらす危うさ
2025年2月に爆発的流行を見せたAI制作による初のヒット曲「YAJU&U」を覚えているであろうか。きわめて権利的に危ういがインターネット人気の高い「淫夢」関連コンテンツとして制作された本楽曲は2024年5月25日に投稿され、その後同年秋の「野獣先輩ダンス」の流行とともに局所的に注目され始め、最終的にはTikTokを中心に記録的大ヒットとなった。
同楽曲は「淫夢」コンテンツの人気を受けてサブスク配信に増えつつある「Y-POP」の一部で、UdioというAI音楽制作ツールを用いて作られている。AI音楽は生成者自身が著作権を主張することができるため、それまで全く音楽を制作したことがない人でも生成楽曲を発表したり、収益を得ることができる。そのためApple MusicやSpotifyをはじめとしたサブスクリプションサービスにもAI生成楽曲を配信する人が密かに増えつつあるのだ。
プロの音楽家が活用した事例も多い。2024年にリリースされたtofubeatsのAIボーカルコンセプトのEP「NOBODY」の制作理由が彼自身が好きで聴いていた楽曲がAI制作によるものでショックを受けたことであったことや、AI flip / suno AI flipと言った、Hyperflipジャンルの著作権的問題をクリアした音楽ジャンルが生まれていること、そしてPAS TASTAメンバーのhirihiriがAI flipのライブ使用を公言し炎上したこと。3つの事例が示すのはAI生成楽曲と人間の作った楽曲がだんだんと見分けが付きづらくなってきている事実である。
またこの問題は音楽に限った話ではない。音楽よりもよりAI普及が進んでいるAIイラストにおいては、主要AIの学習元となった商業的見栄えのしやすい絵柄のイラストレーターが「マスピ顔」と呼ばれ、ファンにAI使用を疑われる事件が多発した。
(※マスピ顔はMasterpieceを由来にした造語。【参考】)
しかしAIイラストに反感を示す層ですら、ChatGPTのドット絵生成やGrokのリライト機能は多用しているケースが多く、技術として市井に普及するのも時間の問題である。
なぜこの話をしたのか。それは「未来のコドモたちの食べ物」に見られる菊地・岩澤の声を学習させたAIボーカルが、Suno AIを用いたボーカルに極めて酷似しているからである。これは新音楽制作工房において用いられているAIボーカル学習エンジンがAI補完のみを重視しており、声の記名性が弱い故に起こってしまっている事態だと思う。
VOCALOID、UTAU、SynthesizerV、Cevioなどの各種合成音声メーカーは、声優や歌手、芸能人など様々な人物の声をベースにしたライブラリをリリースするにあたり、声の記名性を残すことに苦心して取り組んできていたように思える。特にSynthesizerVの開発者は「合成音声特有のキャラクター性を出すよりは人間にとにかく近づけたい」という思想をインタビュー内で明らかにしており、Vsinger花譜の声をベースにしたソフトウェア「可不」の最新版が本人に似過ぎていることで許可が出ず、販売中止になったニュースは、SynthVのリアル志向の行き着く果てと言えるだろう。
一方で重音テトなどを生み出した無料の音声合成エンジンであるUTAUは、誰でも自由に合成音声ライブラリを制作・配布できる代わりに、ソフト特有の機械音声らしさが非常に強く、よっぽど特徴的な声でない限り声の記名性が薄くなりやすく、差別化が難しい。
「未来のコドモたちの食べ物」におけるボーカルは、SynthVエンジンのようなブレスや歌の強弱が自動計算されたナチュラルな歌声の生成を可能にしながら、UTAUのように声の記名性が極めて薄い。これが何を意味するか。新音楽制作工房がsuno AIを使っているか否かにはかかわらず、楽曲全体がAI生成されたときと同じような聴感をもたらすボーカルが、オリジナル楽曲として意図的に選択されているということである。
これはAI楽曲の台頭をリアルタイムで観ている私のような人間からすると、生身の絵描きが自らAI絵に見られるように逆偽装するような、構造そのものが破綻している、極めて歪な行動に見えてしまう。
SPANK HAPPYの2024年以降の在り方として「AI」をキーワードに未来を描こうとするのなら、現在展開されているAIボーカルや周辺の音楽シーンを見つめ、その上で新規性をリスナーに提示する必要がある。菊地氏自身では難しくても、新音楽制作工房のメンバーやスタッフなどがその視座を提唱しない限り、それは未来の提示ではなくただの閉じた主観的なエゴイズムでしかない。
菊地氏は本当にAIボーカルによりリエディットされたSPANK HAPPYの音楽の中に未来を観ていたのだろうか。菊地成孔はインタビューや6/14のライブ会場で度々二期Voの岩澤に対して「一種のボーカロイド的なものであった」と発言している。当日にコドモ・スパンクハッピーが発表されたことからも、AIを使うことで拓けた技術の革新性に着想を得てこの形に着地したのは頷ける。しかしあまりにもアウトプットされた作品が軽薄である。
2024年にtofubeats「NOBODY」がリリースされた際、普段からAIボーカルに慣れ親しんだボカロリスナーは軒並み「花隈千冬にしか聴こえないので正しくコンセプトを体感、咀嚼できない」と嘆くコメントを残していた。これは花隈千冬の声の記名性を感覚として会得したリスナー故の悩みである。「未来のコドモたちの食べ物」で扱われているヴォーカリゼーションの新規性は、これよりもかなり前時代的である。それはつまり「NOBODY」以上に取捨されるリスナーの数が多いということである。
bo enやhirihiri、TOWA TEI、石野卓球、ぼくのりりっくのぼうよみをはじめとするアーティストはボーカロイドの楽曲への使用にあえて言及していない。これはあくまで楽器として認識しているからだと感じる。一方でKAIRUI、DECO*27などのコンポーザーはボーカロイドをはじめとするいわば「AIボーカル」を真っ向から扱っているが、それが故に使い方がリスナーに古めかしさ、滑っている印象を感じさせることはあまりない。
本作は仮歌としてAIボーカルを用いたのならば素晴らしい作品だと思うが、いち作品としてアウトプットするうえでの作家性は「資本主義は未だ有効である」「アンニュイ・エレクトリーク」を除くほとんどの楽曲において極めて薄く、現代においてなぜこの形を選んだのかという説得力に欠ける。
2020年代の悪趣味コンテンツ
先程は「未来のコドモたちの食べ物」の形態そのものが持つコンセプト破綻の側面から追っていったが、一方でSPANK HAPPYは売れることを何度か目指しながらも、音楽性自体は王道ポップスに見られる媚びや観客の参加を内包していない。むしろ特に2期以降のSPANK HAPPYでは売春、薬物、性愛、退廃といったテーマを扱い、そのフェティッシュさがカルト化を生んだ魅力の一つである。
しかし本作は悪趣味作品としても中途半端なのだ。
80年代デビューの岡村靖幸を筆頭に、2000年代のV系作品に多く見られた性表現、DECO*27の性行為をイメージさせる楽曲群、近年ではアーバンギャルド松永天馬がソロ活動にて「最も気持ち悪い男」を自称し、ハラスメントと自ら言いながら楽曲を披露していくスタイルなど、旧世代的でセクハラ的眼差しを含む少女漫画のような軽度の加害的表現は、女性たちの傷ついた経験を克服する存在として古くから支持されてきた。一方で青年漫画として人気の高い「最終兵器彼女」でも、ヒロインのちせが主人公に会えない期間に、近場の親しい中年男性と勢い余って性行為に及ぶシーンがある。ある種男性の欲望的、幻影の投影とも言える描写だが、現実であれば破綻したり女性の搾取によって成立しうる状況の気持ち悪さは素朴で柔らかな絵柄によって中和される。つまり、フィクションであることにより作品として成立している。
2期SPANK HAPPYにおける露悪はこれに実に近く、「明日カノ」「ニディガ」二流行よりも遥かに笑えなく重苦しい、扱いづらいテーマを、両者のキャラクター性、菊地の楽曲構成やボーカルにおける圧倒的な色気、岩澤のピュアながらやさぐれた退廃的な空気感があることにより奇跡的に説得力あるものとして成立させているのだ。
「コドモ・スパンクハッピー」での悪趣味はおもに2つある。
一つはまず売春や薬物の描写が含まれる2期SPANK HAPPYの楽曲に合わせて小学生女子二人をマネキンとしてダンスさせている状況そのものであろう。
もう一つは、売り出し方である。彼女らのLIVE着用衣装は菊地成孔が直接スプレーアートを施したもので、その後デザインはアートタイツとして製品化されている。その際のコメントが以下である。
NK(菊地成孔)のボムを是非とも、ご自身の脚元にタギングしてみて下さい。もしくは、首元にストールとして巻いて頂いたり、フェイスマスクとしてご使用されたり、ドゥーラグのように被るのも… ご使用方法は無限大。ストリート感覚でご自由にお楽しみ下さい。
これはフェティッシュな消費を運営側が提示しているとも取れる。両者に共通するのが、「コドモ・スパンクハッピー」における露悪を幼児性愛的な方向に見いだしているということである。漫画や絵を中心にペドフィリア作品の規制が進みつつある近年において、これは時代錯誤というほかない。
まとめ
本作は「未来のコドモたちの食べ物」といいながら、高齢者に向けたSFである。年齢層が高い老人たちに向けた、空想の新しさの音楽である。つまり対象年齢が合わないので、私には全く受け付けない。エイジングケアの化粧品を若者が使うと肌が荒れる理論と理屈は同じである。
それはゼロ年代の合成音声シーンの台頭やそこに影響されて生まれた現代のJPopシーンの感覚が完全に無視されているからであろう。「新しい」と名乗るには先行研究の精査が甘く、AIボーカル楽曲がある程度流通するようになっている現在のシーンで、このコンセプトを打ち出すために確保すべき新規性の提示が全く存在しない。この甘さは極めて致命的に感じる。ただ老人の作品が迷走していくのは何も菊地氏に限ったことではない。それなのになぜ、SPANK HAPPYのリスナーである私や友人たちの耳にとって、本作はここまで強烈な拒否感をもたらすのか。
それは過去のSPANK HAPPYの魅力が身体性のあるキャラクターや物語の演出にあったからであろう。SPANK HAPPYがかつて前衛的な存在であったであるがゆえに、変化は以前のファンにとって受け入れがたいものであるが、今作の過ちはそういった経年変化の一言で片付けられるものではない。「声が変わった」とかつてのファンに揶揄されても自身でボーカルを取り続けるベテランシンガーたちのような胆力が必要である。2時間13分もある本作を頑張って聴いた上で、身体性および新規性と思える部分はどこにもなかった。
SPANK HAPPYにおいて菊地は都度それまでの音楽への脱臼を試みてきた。しかし菊地が本作において試みた脱臼は、SPANK HAPPY楽曲における魅力の詰まった心臓部であったのだと思う。



コメント
>>SPANK HAPPYの2024年以降の在り方として「AI」をキーワードに未来を描こうとするのなら、現在展開されているAIボーカルや周辺の音楽シーンを見つめ、その上で新規性をリスナーに提示する必要がある。菊地氏自身では難しくても、新音楽制作工房のメンバーやスタッフなどがその視座を提唱しない限り、それは未来の提示ではなくただの閉じた主観的なエゴイズムでしかない。
菊地氏が『未来のコドモたちの食べ物』で試行したのは、ブニュエルの映画『欲望のあいまいな対象』における複数の女優の扱いに代表されるような「同一性の詐術」を氏の過去のカタログであるスパンクス楽曲に適用すること*1であり、そのことは菊地氏のXアカウントに公開投稿として今も残されています。
https://x.com/SHIN_ON_GAK/status/1964380781524242556
また別の投稿では、 “逆転した替え歌、つまり「詞が同じで、曲が違う」カヴァー” こと「逆替え歌」が前述の試行の具体的方法論であることも示されており*2、これは歌詞のみ同一で・編曲も歌唱者も違うという作用を過去の(2期スパンクスという、盲目的な崇拝者も多い)楽曲に施すことで愛着対象への「同一性」を不確かにさせることを意味しています。
*2 https://x.com/SHIN_ON_GAK/status/1950935947136348497
さらに菊地氏はマイルス・デイヴィスの研究著作を大谷能生氏と共に出したこともあるので、「同じ曲なのに違うタイトルがついている」という『On The Corner』の特性に関する指摘をその元ネタと見ることもできますし、それ以前に菊地氏は「チャーリー・パーカーがマイルスからかっぱらった曲」として『Donna Lee』を取り上げ、加えてウェイン・ショーターとの対談内容からアメリカ合衆国における著作権の歴史的正当性に対する疑義を呈してもおられるので、このコメントを書いている私としては、先述した要素群は「AI仕様の楽曲制作」に現在系でまつわる著作権法とのせめぎあいを正面から含み込んだ、とても面白い試みであるように思われます。
*3 『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究』河出文庫刊
さて、貴方は『未来のコドモたちの食べ物』の作品的特性に対して、(菊地氏と面識のある tofubeats はともかくとして)UTAUやボカロ系コンポーザーや淫夢ネタなど、そもそも菊地氏が AIを使用するに際して直接言及すらしていない(繰り返しますが、前掲した菊地氏の投稿はすべて無料公開アカウントのものであり、貴方も検索さえすれば簡単に閲覧できたはずのものです)諸々をなぜか引き合いに出し、『未来のコドモたちの食べ物』で試みられたことへの評価として “未来の提示ではなくただの閉じた主観的なエゴイズムでしかない” と書いてしまったわけですが、批評の対象である作品自体の特性を判断することもできず、手前勝手に捏ねた理屈によって “声の記名性を残すこと” に一元的な価値を認め(この “声の記名性” とやらは、当然ながら、楽曲名自体の同一性を曖昧にすることを目的としている「逆替え歌」にとっては不適格どころか無用のものです。貴方は “「未来のコドモたちの食べ物」におけるボーカルは、SynthVエンジンのようなブレスや歌の強弱が自動計算されたナチュラルな歌声の生成を可能にしながら、UTAUのように声の記名性が極めて薄い” として低評価に結びつけておられますが、 “声の記名性” とやらが漲っているようでは「逆替え歌」の意義が失われると思わないのでしょうか? また、菊地氏は2期スパンクスでボーカルをつとめた岩澤瞳さんを “肉声による世界で最初のヴォーカロイド” と評しており*4、つまり2期スパンクスの時点で “声の記名性” の薄さは最初から特性として備わっていた。である以上コドモ版のスパンクスに対して今更その特性を持ち出して低評価の根拠とするのは論理矛盾でしかないのですが、貴方はそんなことにすら気づけませんでしたか?)、それによって作品の好悪を判断するというのは、そちらのほうがよっぽど悪質な “閉じた主観的なエゴイズム” ではないでしょうか?
*4 https://sp.ch.nicovideo.jp/bureaukikuchi/blomaga/ar2175625
>> しかし本作は悪趣味作品としても中途半端なのだ。
から始まる、あらゆる無理筋を煮詰めたような指摘を読まされてしまった私は、呆れて物も言えません。2期スパンクスのアルバム『ヴァンドーム・ラ・シック・カイセキ』が目指したのは “社交界の少年売春まで扱った二期が表現したかったものは、幼児的がもたらす総てについて、退行の純粋さから倒錯性まで、総てを極限的に、病理的に網羅しようという事” *5 だったと菊地氏によってこの上なく解りやすく説明されているのですが、これがあなたの指摘する “悪趣味” とやらと一体なんの関係があるというのでしょうか? 先に引用した文言で菊地氏が用いているのは精神分析および精神医学の語彙です。2期スパンクスの作品において菊地氏が採ったアプローチが、貴方が頓珍漢にも縷述した “2000年代のV系作品に多く見られた性表現、DECO*27の性行為をイメージさせる楽曲群、近年ではアーバンギャルド松永天馬がソロ活動にて「最も気持ち悪い男」を自称し、ハラスメントと自ら言いながら楽曲を披露していくスタイルなど、旧世代的でセクハラ的眼差しを含む少女漫画のような軽度の加害的表現” などと一体何の関係があるというのでしょうか?
*5 https://sp.ch.nicovideo.jp/bureaukikuchi/blomaga/ar1582101
このコメントを書いている私は男性同性愛者であり、菊地氏が『ヴァンドーム(略)』でモチーフにした「不特定多数との性交のために誂えられた施設」が現実に在ることも知っていますし、「おそらく加齢によって現役を退いたのであろう男性娼のきわめて理知的な独白」という歌詞の内容がエイジズムやルッキズムなどの問題系に(21世紀の日本人男性アーティストとしては例外的な鋭敏さで)言及していたことを高く評価しています。このような作品の特性が、貴方の言う “露悪的” なものと同一のカテゴリに属すると本気で思っているのでしょうか? 2期スパンクスでは“主人公に会えない期間に、近場の親しい中年男性と勢い余って性行為に及ぶシーン” のような、悲惨さや切実さが自己目的化した「セカイ系」モチーフとは全く異なるものが扱われていたことなど明白なのに、言うに事欠いて “しかし本作は悪趣味作品としても中途半端なのだ” とは一体どういうことでしょうか? ここであなたは「そもそも対象作品のなかで試みられてさえおらず質的にも同じでないナニかを一方的に求め・それが無いとして低評価に結びつけた」のであって、この “閉じた主観的なエゴイズム” は、先述したUTAUだの淫夢だの悪趣味だのと最初から無関係なトピックスを持ち出してお説教を垂れるタイプの「音楽批評」しか書けない貴方の論理的欠陥があられもなく露出した結果でしかありません。
>> これはフェティッシュな消費を運営側が提示しているとも取れる。両者に共通するのが、「コドモ・スパンクハッピー」における露悪を幼児性愛的な方向に見いだしているということである。漫画や絵を中心にペドフィリア作品の規制が進みつつある近年において、これは時代錯誤というほかない。
以上の内容だけで、もう既に私は呆れて果てているので、上掲文に対しての懇切な指摘などはしません。簡潔に言っておきます。女性ダンサーが保護者の同意のもとに参加し・女性コレオグラファーと女性メイクアーティストがバックアップしたコドモ・スパンクハッピーという企画に対し “幼児性愛的な方向” が見られるというのなら、それは他でもない貴方自身が “幼児性愛的な方向” の欲望を抱いているということをしか意味しません。 “NK(菊地成孔)のボムを是非とも、ご自身の脚元にタギングしてみて下さい。もしくは、首元にストールとして巻いて頂いたり、フェイスマスクとしてご使用されたり、ドゥーラグのように被るのも… ご使用方法は無限大。ストリート感覚でご自由にお楽しみ下さい。” ←たったこれだけのキャプションが性的消費のように感じられるなら、貴方にとってはユニセックスなファッション志向を(菊地氏のような)男性が薦めること自体が “幼児性愛的な方向” を指していることになるのでしょう。憐れ、としか言えません。
以上、貴方は “悪趣味” とやらの論において、かつての菊地氏が丁重に扱った男性同性愛の当事者性をも侮辱したのであり、私は絶対にこのことを許すつもりはありません。軽率な誘いに乗って軽率な「音楽評」なんか書くからこんなことになってしまうのです。貴方はかしこぶった文体でもっともらしいことを書くことはできますが、音楽作品に関しては「ジブンのスキナモノを並べてあれこれ口角泡を飛ばす」という高校のプラモ研究部レベルのことしかできない。この「音楽評」とやらが有益性だとすればそれが証明された一事以外に無いでしょう。貴方は不見識と不勉強を誤魔化しながら世に阿る駄文を垂れ流すより、オフラインの世界でこれから存分に勉強なさってから執筆に取り組むことをお勧めします。
素晴らしいコメントです!
編集部はこの記事の掲載にあたって、このような反論を心待ちにしていました。むしろこのようなコメントが書かれることこそ、開かれた言論、真の意味での批評の完成と言えるでしょう。
このようなコメントは往々にして削除されてしまいますが、そのような音楽メディアに我々は断固抗議いたします。
これからこの記事を読む方には、本文を書いた風浦さん、コメントを書かれた田畑さま、どちらの意見も等しく読み直していただきたいです。どちらも強烈な「嫌だ」という気持ちで書かれた文章です。何故彼らは「嫌」と思ったのか。その本質は何かを考えていただきたいです。(そういう私も答えを持っておりませんが……)
田畑さま、不快に思われましたら大変申し訳ございませんでした。重ねてになりますが、素晴らしいコメントありがとうございます。是非己の道を歩まれてください。