大井一郎氏について
1950年生まれ。音楽批評家。1970年代アングラ音楽シーンで影響力を持った同人誌「THE MUSIC」への寄稿を中心に、大学在学中から音楽批評家として活躍。70年代から現代にいたるまで、あらゆる音楽雑誌にレビューを寄稿しつづけている。
彼のレビューの特徴はほぼすべての音楽に0点を付けることである。THE MUSIC “The Beatles特集”で彼らの全作品に0点を付けて以降、”0点マニア”として名をはせてきた。その内容から掲載拒否されることも多い氏のレビューだが、この記事では彼の長いキャリアから選んだ特に優れた批評を紹介していこう。
Abbey Road
コンセプトアルバム―これは彼らが始めたことになっているが、実際には一枚も作っていない―が基本の時代に、彼らほど影響力のある音楽家がこんな統一感のかけらもないアルバムを市井に発表するのは問題である。特にA面とB面の乖離が甚だしい。B面にはコンセプトアルバムに挑戦しようとした形跡が見られるが、節操がない。コンセプトがあるのかないのか、中途半端である。
さらに言えば、バンドの協調性がほとんど感じられない。「メンバーの力関係のいびつさ」に注目すれば、この作品は今までで一番に酷い。今まで彼らの作品すべてに0点を付けてきたが、この作品も間違いなく0点。
(1972年)
彼の名を一躍有名にしたTHE MUSIC “The Beatles特集”より。辛口なレビューと最後に「0点」締めるという彼のスタイルが、弱冠20歳にして確立されている。
ビートルズのアルバムすべてに対してこの調子でレビューしたため大変物議をかもした。「ビートルズはコンセプトアルバムを作っていない」など議論の余地がある部分もあるが、彼の言っていることは大きく間違ってはいないのも事実である。名盤に対して臆面もなく0点を付ける批評を付ける人物として、人々の記憶に爪痕を残した。
Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols
彼らは反体制を標榜し社会への怒りを音楽へと昇華、現在進行形で若者たちを熱狂させている。ここまではいい。問題はこのアルバムが各国のチャートで1位を取っていることである。
シド・ヴィシャスの叫びがロンドンの街角で鳴り響いた翌日には、レコード店の棚に整然と並べられ、ヒットチャートへと吸収される。これは彼らの言うパンクといえるのか。反体制が売り物になった瞬間、それは反体制であることをやめるのだ。
このアルバムが最もよく機能したのは、資本主義社会のレコード流通においてである。コンセプトが破綻している。彼らはレコードを出すべきではなかった。0点。
(1978年)
DISSONANCE “1977年ベストアルバム特集”より。
彼の批評スタイルの由来は学生時代の体験にあるという。あるロックバンドのライブに参加した際、社会変革を呼びかけるステージに大井はいたく感銘を受ける。しかし熱狂の中で、自分を含めたほとんどの観客は翌日には普段どおりの生活に戻っているだろうことに気づく。革命を語る音楽もただの娯楽として消費されるだけではないか。正しく評価すれば音楽はすべて音楽的に無価値なのかもしれない……このとき大井は音楽にある種のパラドックスを感じ取ったのである。
70年代末に興ったパンクシーンに大井は似たものを感じたのだろう。パンクシーンを一種冷めた目で見ていた世界でも稀有な人物であった。この批評により大井は単なる辛口批評家を超えた存在として一目置かれるようになる。
Solid State Survivor
シンセサイザーが音を紡ぎ、正確なビートを刻む。”Solid State Survivor”は、音楽が人間の手を離れ、機械の領域へと移行しつつあることを明確に示した。
これを未来の音楽と呼ぶ者もいるが、むしろ音楽の終焉の兆しかもしれない。沖縄音楽のグルーヴをアルゴリズム化した楽曲を聴くと、いずれ作曲すらアルゴリズムに委ねられ、誰も音楽を“作る”ことすらしなくなる日が来るのではないかとさえ思ってしまう。
電子音の整然とした美しさ、正確なリズムは確かに心地よい。しかしそれは感情の発露ではなく、完璧に制御されたデータの羅列である。もし音楽の進化がこの方向に向かうならば、コンピュータは演奏のみならず作曲もしだすだろう。そのとき、人はもはや音楽を生み出す存在ではなく、それを受動的に享受するだけの消費者へと成り下がるのだ。それを享楽として描き出す本作は、楽観的すぎやしないか。
彼らの功績のその先に待っているのは、音楽が人間の手を離れ、ついには不要となる未来なのではないだろうか。これを称賛すべきかすべきではないかは各人の価値観によるだろう。しかし、私は機械のみが跋扈する無人の未来は見たくない。0点。(1979年)
批評する全ての音楽アルバムに0点を付けながらも大井一郎が評価されているのは、あくまで「公正な批評」を目指している点である。「できれば0点を付けたくないのだが、様々に思案した結果0点になってしまう」と大井は後に語っている。
日本音楽が海外でも通用したと大盛り上がりの中でも大井は自分のスタンスを崩さない。むしろその恐ろしさについて語るのである。現在の視点で見ると、彼の冷徹な批評はAIが到来した世界の未来予知にもなっている。
Ascension
音楽はもともと宗教の道具であった。それは神への祈りであり、儀式であり、あるいは神の声を人間に届けるための手段だった。近代に入り、音楽は音楽それ自体の価値をもつことで宗教から分離し、独立した芸術としての道を歩むことになった。それゆえ、ジャズがスピリチュアルを掲げたとき、進化の先に待っていた単なる退行なのか?と私は思ってしまったのだ。
(中略)
コルトレーンの『Ascension』の衝突し合う即興や制御の効かない混沌は、確かに崇高な何かへ向かっているようだ。しかし、それは本当に「超越(=Ascension)」だったのか? いやむしろ、音楽が音楽であることを捨てかつての宗教的な響きを借りることで、意味を持とうとした試みではなかったか? ここにあるのは、近代芸術ではなく神への回帰である。
(中略)
コルトレーンの求めた音楽の高みは、結局のところ、過去に向かって降下しているだけではないのか? もし音楽が本当に進化したのなら、なされるべきこととは「神の再発見」ではなく「神なしでどこへ行けるか」の模索だったはずだ。0点である。
(1981年)
大井はロックの批評で知られているが、それ以外のジャンルの批評も書いている。この批評はポストモダン雑誌ポスト・ストラクチャー”特集:ジャズは神に還るのか”に掲載されたものの一部である。
ロック批評家がポストモダン雑誌でフリージャズの批評をする、というのは一見不可思議である。しかし度々音楽の終焉を仄めかしていた大井と、ポストモダン思想とは親和性があった。加えて伝統的なジャズ評論家たちの議論が循環する中で、ロック批評の異端児である大井を起用し議論を活性化させようとする狙いがあったのだ。また極端な視点を提示することで、音楽の価値そのものを問い直すメタ的な実験の意味もあったと言われている。
はたして、この批評は賛否両論となった。特に多くのジャズファンから批判が寄せられた。あまりにもラディカルな批評内容はもちろんのこと、ロック批評の人間がジャズの文脈を無視して批評することへの反発があったのである。以降大井はロック以外の批評を書くことが少なくなってしまった。
とはいえ、一般に前衛的と称されるこのアルバムを「退行」と批評したのは過激だが面白い。ここに大井批評の面白さが出ているように思う。
OK Computer
構成美、冷たい哀愁、どれもよく作り込まれている。だからこそ本作は欺瞞だ。人間が機械に支配される未来をテーマにしながら、人間的な情緒に依存しすぎている。
ここにはコンピューターシステムへの完全な従属も、あるいは反逆もない。あるのは、未来を見つめるフリをした、現在の音楽の枠を超えられなかった音楽だけだ。だからこの作品は、決して彼らが望む未来になりえてはいない。0点。
(1999年)
90年代、ベテラン批評家として知られるようになった大井はレコード会社やバンドから批評を依頼されることが多くなる。「大井に0点を付けられる作品が本物」とされ、一種のステータスとされたのである。しかし彼はあくまで書きたい作品にしか書かなかった。「あくまで批評に値する作品にしか批評しない」と当時の大井は語っている。そのような背景もあり、90年代以降は極端な寡作となってしまう。
数少ない90年代の作品に対する批評の中で、最も知られているのがOK Computerへの批評であろう。同時代的には前衛的すぎるとされていた彼らのコンセプトが、それでもまだ十全ではないと痛烈に批判したのは衝撃的であった。
ちなみにこの後、彼が唯一100点を与えた作品が登場する。それが何かはこの批評を読めば分かるだろう。

Water Walk編集長。2019年からネット記事に影響を受けた音楽ブログを執筆し、カルト的に話題に。2022年からは知人ライター達とnote上でWater Walkを設立。ここ数年は前衛音楽などの現代芸術を手本にした批評を制作、前衛的批評”クリティシスム”を提唱している。Sound Rotaryへの寄稿、KAOMOZINE編集など、外部でも精力的に活動中。
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